狼にも一夜の宿を。芭蕉が歩いた北総の牧 松尾芭蕉「萩原や一夜はやどせ山のいぬ」
A面は本歌(もとうた)、B面は翻歌(ほんか)。歌の芯を同じ場所の今へ翻して、新たな歌と景をつくります。
萩原や 一夜はやどせ 山のいぬ
松尾芭蕉(『鹿島詣』貞享四年〈1687〉、題「野」)
牧の原、という地名から
千葉の北総台地に、印西市や白井市があります。私はそこで進んでいるプロジェクトに関わっていて、印西牧の原という駅名に残っているとおり、このあたりが昔は「牧(まき)」、つまり馬を放し飼いにする野だったと聞いていました。
プロジェクトの研究者の方に、印西か白井のどこかに残る「野馬除土手」に連れて行ってもらったことがあります。どこの土手だったかは、正直、もう定かではありません。覚えているのは、言われてみないとまったく分からない場所だった、ということです。確かに少し盛り上がった土手がある。高さは1mくらいだったでしょうか。そんなに高くはない。でも、このあたりの馬は背丈の小さい馬で、ロバと言ったら言い過ぎだけれど、小柄な馬にはこの土手を飛び越えるのが難しかった、と教わりました。そう言われると、当時の風景が少しだけ見えた気がしたんです。
この土地を、一首一景で歌にできないか。そう思って調べ始めました。
探すと、芭蕉がいた
先に結論を言うと、江戸幕府の印西牧そのものを詠んだ古歌は見つかりませんでした。北総の歌枕は真間や葛飾や香取で、印旛は入っていません。万葉集には印旛郡の防人の歌が一首だけあります(「潮舟の舳越そ白波にはしくも負ふせたまほか思はへなくに」)が、馬は出てきません。
ところが、牧を実際に歩いて「野の馬」を書き残した人がいました。松尾芭蕉です。
貞享4年(1687)の秋、芭蕉は鹿島の月見に出かけます。『鹿島詣』という短い紀行文が残っていて、その冒頭がこうです。
門よりふねにのりて、行德といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。
深川から舟で行徳へ。行徳で舟を降りて、馬には乗らず、細い脛の力を試そうと歩いて行く。私はいま行徳に住んでいるので、ここでまず縁を感じました。芭蕉の徒歩の旅は、私の家のあたりから始まっています。
八幡を過ぎると、鎌ヶ谷の原という広い野に出ます。そこは幕府の牧、小金牧でした。
萩は錦を地にしけらんやうにて(略)きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。
萩が錦を地に敷いたよう。桔梗、女郎花、刈萱、尾花が乱れ咲き、牡鹿が妻を恋うて鳴く。そして「野の駒、ところえがほにむれありく」。野の馬たちが、ここは自分の場所だという顔で群れ歩いている。これもまた、しみじみと胸に来る。
「駒」は馬のことで、歌ことばです。そして「ところえがほ」は「所を得た顔」。人が引く馬ではなく、牧に放たれて我が物顔で草を食む馬の描写です。日が暮れかかる頃に利根川のほとりの布佐に着いたと書いてあるので、この日の夕方、芭蕉は鎌ヶ谷から白井、印西牧のあたりを歩いていたはずです(道程からの推定です)。
出発は旧暦8月14日とされています(本文に日付はなく、後の研究による比定です)。国立天文台の暦のデータベースで換算すると、新暦の1687年9月20日でした。私がこの調査を始めたのが9月19日。339年前の、ちょうど同じ季節の夕方の話でした。
この句のこと
『鹿島詣』には「野」と題した三つの句が並んでいます。同行した曾良の「もゝひきや一花摺の萩ごろも」、曾良の「はなの秋草に喰あく野馬哉」、そして芭蕉の「萩原や一夜はやどせ山のいぬ」。曾良の句は、秋草の花盛りに腹いっぱい草を食む野馬の、おおらかな一句。芭蕉の句の「山のいぬ」は狼です。底本ではひらがなで「山のいぬ」と書かれていて、「山の犬」という漢字の表記は底本のものではない、と分かりました。
句の意味は、こうです。萩の野よ、山の犬でも一晩は泊めてやれ。「やどせ」は「宿す」の命令形で、呼びかけの相手は狼ではなく萩の原です。
ここで知ったことが、一つ嬉しかった。私は狼というのは、当時、忌み嫌われていた獣なのだろうと思い込んでいました。調べると、時系列が逆でした。狼を「お犬様」として祀る秩父の三峯神社の信仰が確立するのは享保12年(1727)で、句の40年後。狂犬病が日本に入ってくるのも1732年で、やはり後です。1687年の狼は、素朴に恐れられながら、原野で人と隣り合っていた獣でした。狼を「大口の真神」と呼ぶ畏敬は万葉集にまで遡りますから、「畏れつつ敬う」根はもっと古い。
もう一つ。和歌には「臥猪の床」という歌ことばがあって、萩の茂みを獣の寝床に見立てる伝統があるそうです。芭蕉はその「猪」を「狼」に置き換えた。萩の美しさは、あの荒々しい獣まで抱き込んでしまうだろう、という風雅の度量の句。
ただ、私にはもう一段あるように思えました。芭蕉はこの旅の冒頭で、自分のことを「僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶり」と書いています。僧でも俗人でもない、鳥と鼠のあいだ、つまりこうもりのような者。行徳で馬を断って、日が暮れるまで野を歩き、布佐の漁師の家に転がり込んで「よるのやどなまぐさし」と書く。帰るところのない者が、野の縁で一夜の宿を乞う。この日の芭蕉自身が「山の犬」なんじゃないか。『泊船集』に伝わる別案「狼も一夜はやどせ萩がもと」の「も」が、それを言っている気がします。「私と同じように、狼も」。
同情というより、同族。松尾芭蕉自身も山の犬も、同じ自然の中で対等である。そういう感じなんだと思いました。これは、いま私が仕事で関わっているネイチャーポジティブという考え方に通じます。自然の中に、我々の社会や経済が包含されている。339年前の一句が、それをすでに言っている。
なお、貞享4年は綱吉の生類憐みの令のうち「犬」を名指しした法令が2月と4月に集中して出た年でもありました。芭蕉の「山の犬」との関連を論じた研究は見つけられなかったので、ただの符合かもしれません。でも、気になっています。
牧という営み
歌の中の営みは、野に一夜の宿を求めること。そして地の文にある、野馬の放牧です。
下総は、古くから馬を放つ土地でした。927年の『延喜式』には下総の官牧が五つ(馬の牧が四つ、牛の牧が一つ)載っています(そのうちの一つが印西だという説もありますが、通説は船橋で、仮説にとどめます)。江戸時代には幕府直轄の小金牧と佐倉牧が置かれ、印西牧は小金牧の一つとして、白井から印西の東、印旛沼の北岸まで広がっていました。牧士という名字帯刀を許された農民が管理し、年に一度、野馬を「捕込」に追い込んで、良い馬を江戸の厩へ送る「野馬捕り」が行われました。明治3年(1870)に描かれた『印西牧場之真景図』という屏風絵が白井市の郷土資料館に残っていて、騎馬の牧士たちと野馬の群れが描かれています。
明治になって牧は開墾され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三と、開いた順に数字の地名がつきました。白井の「十余一」は、印西牧の跡です。
そして今。牧の跡には、JRA競馬学校(1982年開校)があります。15歳から20歳未満の若者が、全寮制の3年間で騎手を目指す学校です。印西の小林牧場(1965年〜)は大井競馬の競走馬を育てています。古代の官牧から江戸の印西牧、明治の開墾、そして競馬学校へ。馬を育てる営みが、形を変えて続いている土地でした。江戸の牧から数えても三百年以上、仮説の官牧から数えれば千年を超えます。
花は、ぜんぶ芭蕉が書いていた
絵ができてきたとき、ピンクの花、紫の花、黄色の花、それにススキが描かれていて、私はこれらがこの季節に本当に咲いているのか、咲いているならそれは何なのかを確かめたいと思いました。
調べると、全部、芭蕉自身がこの日の地の文に書いた花でした。ピンクから赤紫は萩、紫は桔梗、黄色は女郎花、銀の穂は尾花、つまりススキ。あとは目立たない緑の刈萱。いずれも花期は9月で、9月20日に矛盾はありません。秋の七草のうち四つを、芭蕉はこの野で並べていたことになります。
絵で揉めたこと
本歌の最初の絵には、旅人が三人描かれていました。私は「芭蕉は一人で旅をしていたんじゃないのか」と思ったのですが、確かめると、事実として三人でした。「ともなふ人ふたり、浪客の士ひとり、ひとりは水雲の僧」。曾良と宗波という僧が一緒です。事実がそうなら、無理に一人にしなくていい。
そのうえで、構図を変えました。芭蕉一人が低い土手の上に立って馬を見ていて、同行の二人は先の道を小さく歩いている。土手が1687年にそこにあったかは確かめられないので、これは仮説です。土手の高さは場所によってずいぶん違うようなので、絵では、研究者の方に教わった土手の印象に寄せて、腰の高さにしました。馬は、横長の絵で全部が同じ向きを向いていて不自然だったので、向きをばらして、一頭は芭蕉のほうを向かせました。狼は最初、ふっくらしすぎていて、ハスキー犬のようでした。ニホンオオカミは大陸の狼より小さく、脚と耳が短く、尾を垂らした痩せた犬のような姿だそうです。そう直しました。
本歌(A面)の象徴画像。土手の上の芭蕉と、芭蕉を見る一頭(生成AI・Codex image_genで制作)
縦長の絵は、直したら土手が二本になってしまい、もう一度直しました。差し替えのたびに、縦と横を別々に見ないといけない、というのが今回の教訓です。
翻歌を作るときに考えたこと
ここで、盤を裏返してみてください。B面、翻歌です。
一首一景では、一つの歌を一枚のレコードのように、表と裏の二曲にしています。表(A面)は原歌の世界に寄せた「本歌」、裏(B面)は歌の芯を同じ場所の今へ翻してつくる「翻歌」です。
今回はまず、A面・B面・記事の三つで、それぞれ何を芯にするかを決めました。A面は「ところえがほ」。我が物顔の馬たちを、歩き通した旅人が見る。B面は「やどせ」。家を離れた誰かを、この土地が一晩泊める。そして記事は「同じ野の住人」。
問題は、翻歌で「山の犬」を誰に置き換えるかでした。当時の狼がどういう存在だったか、それに当たるものが現代に何か、と考えて、AIと候補を並べました。夜の野を通り抜ける人。狼がいなくなった今、土手の前に立って「ここに何があったか」を語る人。そして、家を離れたばかりの15歳。
途中でAIが「データセンターの夜通しの灯り」を提案してきました。確かにこのエリアはデータセンターが集まっている場所です。でも、電車から見えるデータセンターはないし、そもそもデータセンターはあまり人がいないので、夜通し灯りをつけておく必要がない。見ていない風景を雰囲気で足したら、それは現代のハルシネーションなので、これは落としました。
選んだのは、競馬学校の騎手候補生です。芭蕉が山の犬に自分を重ねたように、家を離れて牧の跡で一夜の宿を求める者に、一人前の騎手を目指す子を重ねる。「野の駒」と「山の犬」を一人で兼ねられる。
案は二つ残りました。寮の窓から黒い野を見て最初の夜を思い出す案と、土手の上に立って昔の小さな馬のことを知る案。悩んだので、足しました。寮の窓の夜と、一人で歩いて行った土手。ただし「教官が土手に連れて行く」のような、事実として確かめられない出来事は入れない。歌の中で確かめられるのは、全寮制の3年、朝7時半からの実技、野馬除土手が今も残っていること、当時の在来馬が体高110〜120cm台と推定されていること、くらいです。
季節も合わせました。入学は4月なので「入学の夜」にすると春になって、本歌の秋と合わない。だから翻歌の主人公は9月、入学から5か月の少年にしました。
一カット目は、9月の夜の寮の部屋です。窓の外は暗い野と木立で、月も灯りも描いていません。学校を特定するものも描いていません。
翻歌(B面)カット1の象徴画像(生成AI・Codex image_genで制作)
二カット目は、昼の土手です。少年が一人で歩いて行った野馬除土手として、白井市冨士に残る中野牧の野馬除土手(市の指定文化財)を、市の公式写真を参照して描きました。住宅地の中に、木の生えた低い土手が残っています。曲では、「ひとりで歩いた」の行の頭で、窓から土手へ絵が切り替わります。
翻歌(B面)カット2。白井市の公式写真を参照して描いた野馬除土手(生成AI・Codex image_genで制作)
声のこと
本歌は、歩く速さの拍で、三味線一挺と篠笛、40代半ばの低く乾いた男声にしました。翻歌は、ナイロン弦のギターとフェルトピアノの、10代の少年の声です。
今回はいつもと違うことを一つ試しました。Sunoに自分の声を登録したVoiceという機能があって、一首一景では使わないと決めていたのですが、たまにはチャレンジしてみたいと思って、本歌も翻歌も自分の声で歌わせてみた。結果としては、声なしのほうを採用しました。でも試してよかった。
歌詞は一箇所、歌わせてみて直しました。翻歌の「ちいさな うまを とめてた どて」が、歌になるとイマイチだった。「ちいさな うまを とめてた とか」にしました。「昔ここで小さな馬を止めてた、とか」。15歳の言い方として自然になったのと、土手の高さを断定しない言い方にもなった。研究者の方に教わった1mほどと、隣の鎌ヶ谷市が国の史跡の整備で測った約3mとで数字が合わないので、その意味でも「とか」でよかったと思っています。
それから、翻歌の曲の指示からテンポ(BPM)の指定を外しました。指定して作ったものより、外して作ったもののほうが、納得のいく曲になった。理由は分かりません。
まだ分かっていないこと(教えてください)
考証は、仮説として版を打って公開する、というのがこの企画のやり方です。今回、調べても決められなかったことを書いておきます。
- 「野」の三句が、往路の鎌ヶ谷の原で詠まれたのか、帰路(潮来のあたり)なのか。地の文との語彙の一致から往路が有力ですが、句集の並びだけ見ると帰路の可能性も残ります。
- 鎌ヶ谷から布佐へ、芭蕉が正確にどの道を通ったか。白井を通ったというのは道程からの推定です。
- 絵に描いたような低い土手が、1687年にその野にあったかどうか。白井市の八幡溜の土手は「17世紀から」と推定されています。
- 土手の高さ。私が研究者の方に教わったのは約1m(印西か白井のどこかの土手)、鎌ヶ谷市の史跡整備計画の実測では土手約3m・堀約2m。場所の違いか、風化か、内側の低い土手か。
- 下総の牧の馬の体格。110〜120cm台という数字は隣の佐倉牧の論文からの類推で、小金牧そのものの実測はありません。
- 白井の台地から、今も筑波山の二峰が見えるか。芭蕉は鎌ヶ谷の原で見ています。絵には遠くに小さく入れました。
- 小金牧や印西牧で、狼が野馬を襲った記録や狼狩りの記録があるか。今回は見つかりませんでした。
- 貞享4年の生類憐みの令(犬)と、この句の「山の犬」に関係があるか。
- 『泊船集』の「狼も一夜はやどせ萩がもと」が初案なのか、推敲後の異案なのか。
- 行徳で芭蕉が舟を降りた正確な場所。本行徳の河岸だろうと言われていますが、今ある常夜灯は1812年のもので、芭蕉より後です。
詳しい方がいらしたら、ぜひ教えてください。次の版で直します。
出典
調査に使ったページです。読みや解釈の情報は、できるだけ原文サイトや辞典で裏を取るようにしましたが、AIによる要約を経由しているものもあります。正確な引用が必要な方は原ページをご確認ください。
- 松尾芭蕉「鹿島紀行」本文(岩波 日本古典文学大系46『芭蕉文集』底本の転載) http://sybrma.sakura.ne.jp/180basyou.kashimakikou.html / 鹿島詣の注釈(山梨県立大 伊藤洋) https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/kashimamoude/zenbun.htm / 芭蕉翁顕彰会「鹿島紀行(7句)」 https://www.basho-bp.jp/?page_id=22
- 国立天文台 暦計算室「日本の暦日データベース」(貞享4年8月14日=1687年9月20日) https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/
- Wikipedia「小金牧」(印西牧・芭蕉の通過・開墾地名)/「牧の原 (印西市)」/「印旛郡」/「香取海」
- 白井市公式「印西牧場之真景図(市指定文化財)」 https://www.city.shiroi.chiba.jp/soshiki/kyoiku/k08/sho009/bun002/bun004/1423036298790.html /「中野牧野馬除土手」 https://www.city.shiroi.chiba.jp/soshiki/kyoiku/k08/sho009/bun002/bun004/1423036304723.html /「八幡溜野馬除土手」 https://www.city.shiroi.chiba.jp/soshiki/kyoiku/k08/sho009/bun002/bun004/1521792781678.html
- 鎌ケ谷市「国史跡 下総小金中野牧跡」 https://www.city.kamagaya.chiba.jp/smph/kanko-bunka-sports/bunka/kunishiseki/index.html
- 千葉県「佐倉牧の牧士資料」 https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p191-005.html
- 金澤真嗣「佐倉牧における野馬の生産と生態」馬事文化財団紀要 2020(在来馬の体高の推定)
- JRA競馬学校 https://www.jra.go.jp/school/ / 北総鉄道「西白井駅にJRA競馬学校の常設展示スペースを開設」 https://www.hokuso-railway.co.jp/station/nishi_shiroi/detail/15266
- 印西市公式「小林牧場の桜」 https://www.city.inzai.lg.jp/0000001350.html
- 万葉集 巻20(防人歌 4389 印波郡 丈部直大麻呂)Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/万葉集/第二十巻
- 狼観(大口真神・三峯神社・狂犬病の流入)、臥猪の床、生類憐みの令の年次については各解説サイトと辞典で確認(詳細は作品フォルダの資料集)
挿絵は、すべてこの企画のために生成AI(OpenAI Codex CLI 組み込みの画像生成)で制作したものです。野馬除土手の絵は白井市の公式写真を参照して描いてもらいました。楽曲は Suno v6、構成と編集は Claude Code を使っています。何か使用上の問題等が考えられる場合は、ご連絡をいただけましたら幸いです。

