えいわ一首一景
A面 本歌 萩原や
B面 翻歌 萩原や
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SIDE A本歌もとうた

萩原や 一夜はやどせ 山のいぬ

松尾芭蕉(まつおばしょう)松尾芭蕉『鹿島詣』貞享四年(1687)千葉・鎌ヶ谷の原〜白井・印西の牧の野(仮説。翻歌の土手は白井市冨士の中野牧野馬除土手) 秋/夕

1687年秋、鹿島の月見へ。 行徳で舟を降り、馬に乗らず 歩いた芭蕉は、幕府の牧の野で 我が物顔に群れ歩く馬たちを 「あはれ」と書いた。萩の野よ、 山の犬(狼)にも、一夜の宿を。

VERSE舟を降りて 馬には乗らず 細い脛で 野を渡る 暮れかかる野に 萩の錦 野の駒は ところえがおに 群れ歩く CHORUS萩原や 一夜はやどせ 山のいぬ萩原や 一夜はやどせ 山のいぬ

SIDE B翻歌ほんか

牧の跡に建つ、騎手を目指す

子の学校。家を離れて五か月の夜、 少年は、昔は小さな馬を止めて いた土手を思う。芭蕉が、狼にも 一夜の宿をと萩に呼びかけた野は、 いま彼を泊めている。

VERSE寮の窓の外 暗い野原 四月の最初の夜を 思い出す ひとりで歩いた 野馬除土手 小さな馬を 止めてた、とか VERSE一夜が五か月 ここに泊まって 明日の朝は 馬がこっちを見る CHORUS萩原や 一夜はやどせ 山のいぬ萩原や 一夜はやどせ 山のいぬ

仮説 v1芭蕉が牧の野を歩いたのは往路の夕方で、低い土手の上から馬を見た、という本作の仮説

狼にも一夜の宿を。芭蕉が歩いた北総の牧 松尾芭蕉「萩原や一夜はやどせ山のいぬ」

A面は本歌(もとうた)、B面は翻歌(ほんか)。歌の芯を同じ場所の今へ翻して、新たな歌と景をつくります。

萩原はぎはらや 一夜ひとよはやどせ 山のいぬ

松尾芭蕉(『鹿島詣かしまもうで』貞享四年〈1687〉、題「野」)

牧の原、という地名から

千葉の北総台地に、印西市や白井市があります。私はそこで進んでいるプロジェクトに関わっていて、印西牧の原という駅名に残っているとおり、このあたりが昔は「牧(まき)」、つまり馬を放し飼いにする野だったと聞いていました。

プロジェクトの研究者の方に、印西か白井のどこかに残る「野馬除土手のまよけどて」に連れて行ってもらったことがあります。どこの土手だったかは、正直、もう定かではありません。覚えているのは、言われてみないとまったく分からない場所だった、ということです。確かに少し盛り上がった土手がある。高さは1mくらいだったでしょうか。そんなに高くはない。でも、このあたりの馬は背丈の小さい馬で、ロバと言ったら言い過ぎだけれど、小柄な馬にはこの土手を飛び越えるのが難しかった、と教わりました。そう言われると、当時の風景が少しだけ見えた気がしたんです。

この土地を、一首一景で歌にできないか。そう思って調べ始めました。

探すと、芭蕉がいた

先に結論を言うと、江戸幕府の印西牧そのものを詠んだ古歌は見つかりませんでした。北総の歌枕うたまくらは真間や葛飾や香取で、印旛いんばは入っていません。万葉集には印旛郡の防人さきもりの歌が一首だけあります(「潮舟の舳へ越そ白波にはしくも負ふせたまほか思はへなくに」)が、馬は出てきません。

ところが、牧を実際に歩いて「野の馬」を書き残した人がいました。松尾芭蕉です。

貞享4年(1687)の秋、芭蕉は鹿島の月見に出かけます。『鹿島詣』という短い紀行文が残っていて、その冒頭がこうです。

門よりふねにのりて、行德といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。

深川から舟で行徳へ。行徳で舟を降りて、馬には乗らず、細い脛すねの力を試そうと歩いて行く。私はいま行徳に住んでいるので、ここでまず縁を感じました。芭蕉の徒歩の旅は、私の家のあたりから始まっています。

八幡やわたを過ぎると、鎌ヶ谷かまがやの原という広い野に出ます。そこは幕府の牧、小金牧こがねまきでした。

萩は錦を地にしけらんやうにて(略)きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。

萩が錦を地に敷いたよう。桔梗ききょう、女郎花おみなえし、刈萱かるかや、尾花おばなが乱れ咲き、牡鹿が妻を恋うて鳴く。そして「野の駒、ところえがほにむれありく」。野の馬たちが、ここは自分の場所だという顔で群れ歩いている。これもまた、しみじみと胸に来る。

「駒」は馬のことで、歌ことばです。そして「ところえがほ」は「所を得た顔」。人が引く馬ではなく、牧に放たれて我が物顔で草を食む馬の描写です。日が暮れかかる頃に利根川のほとりの布佐ふさに着いたと書いてあるので、この日の夕方、芭蕉は鎌ヶ谷から白井、印西牧のあたりを歩いていたはずです(道程からの推定です)。

出発は旧暦8月14日とされています(本文に日付はなく、後の研究による比定です)。国立天文台の暦のデータベースで換算すると、新暦の1687年9月20日でした。私がこの調査を始めたのが9月19日。339年前の、ちょうど同じ季節の夕方の話でした。

この句のこと

『鹿島詣』には「野」と題した三つの句が並んでいます。同行した曾良そらの「もゝひきや一花摺ひとはなずりの萩ごろも」、曾良の「はなの秋草に喰くいあく野馬のうま哉」、そして芭蕉の「萩原や一夜はやどせ山のいぬ」。曾良の句は、秋草の花盛りに腹いっぱい草を食む野馬の、おおらかな一句。芭蕉の句の「山のいぬ」は狼です。底本ではひらがなで「山のいぬ」と書かれていて、「山の犬」という漢字の表記は底本のものではない、と分かりました。

句の意味は、こうです。萩の野よ、山の犬でも一晩は泊めてやれ。「やどせ」は「宿す」の命令形で、呼びかけの相手は狼ではなく萩の原です。

ここで知ったことが、一つ嬉しかった。私は狼というのは、当時、忌み嫌われていた獣なのだろうと思い込んでいました。調べると、時系列が逆でした。狼を「お犬様」として祀る秩父の三峯神社の信仰が確立するのは享保12年(1727)で、句の40年後。狂犬病が日本に入ってくるのも1732年で、やはり後です。1687年の狼は、素朴に恐れられながら、原野で人と隣り合っていた獣でした。狼を「大口おおくちの真神まかみ」と呼ぶ畏敬は万葉集にまで遡さかのぼりますから、「畏れつつ敬う」根はもっと古い。

もう一つ。和歌には「臥猪ふすいの床とこ」という歌ことばがあって、萩の茂みを獣の寝床に見立てる伝統があるそうです。芭蕉はその「猪」を「狼」に置き換えた。萩の美しさは、あの荒々しい獣まで抱き込んでしまうだろう、という風雅の度量の句。

ただ、私にはもう一段あるように思えました。芭蕉はこの旅の冒頭で、自分のことを「僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠ちょうその間かんに名をかうぶり」と書いています。僧でも俗人でもない、鳥と鼠のあいだ、つまりこうもりのような者。行徳で馬を断って、日が暮れるまで野を歩き、布佐の漁師の家に転がり込んで「よるのやどなまぐさし」と書く。帰るところのない者が、野の縁で一夜の宿を乞う。この日の芭蕉自身が「山の犬」なんじゃないか。『泊船集はくせんしゅう』に伝わる別案「狼も一夜はやどせ萩がもと」の「も」が、それを言っている気がします。「私と同じように、狼も」。

同情というより、同族。松尾芭蕉自身も山の犬も、同じ自然の中で対等である。そういう感じなんだと思いました。これは、いま私が仕事で関わっているネイチャーポジティブという考え方に通じます。自然の中に、我々の社会や経済が包含されている。339年前の一句が、それをすでに言っている。

なお、貞享4年は綱吉の生類憐しょうるいあわれみの令のうち「犬」を名指しした法令が2月と4月に集中して出た年でもありました。芭蕉の「山の犬」との関連を論じた研究は見つけられなかったので、ただの符合かもしれません。でも、気になっています。

牧という営み

歌の中の営みは、野に一夜の宿を求めること。そして地の文にある、野馬のまの放牧です。

下総は、古くから馬を放つ土地でした。927年の『延喜式えんぎしき』には下総の官牧が五つ(馬の牧が四つ、牛の牧が一つ)載っています(そのうちの一つが印西だという説もありますが、通説は船橋で、仮説にとどめます)。江戸時代には幕府直轄の小金牧と佐倉牧さくらまきが置かれ、印西牧は小金牧の一つとして、白井から印西の東、印旛沼の北岸まで広がっていました。牧士もくしという名字帯刀を許された農民が管理し、年に一度、野馬を「捕込とっこめ」に追い込んで、良い馬を江戸の厩うまやへ送る「野馬捕り」が行われました。明治3年(1870)に描かれた『印西牧場之真景図』という屏風絵が白井市の郷土資料館に残っていて、騎馬の牧士たちと野馬の群れが描かれています。

明治になって牧は開墾され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一とよいち、十余二、十余三と、開いた順に数字の地名がつきました。白井の「十余一」は、印西牧の跡です。

そして今。牧の跡には、JRA競馬学校(1982年開校)があります。15歳から20歳未満の若者が、全寮制の3年間で騎手を目指す学校です。印西の小林牧場(1965年〜)は大井競馬の競走馬を育てています。古代の官牧から江戸の印西牧、明治の開墾、そして競馬学校へ。馬を育てる営みが、形を変えて続いている土地でした。江戸の牧から数えても三百年以上、仮説の官牧から数えれば千年を超えます。

花は、ぜんぶ芭蕉が書いていた

絵ができてきたとき、ピンクの花、紫の花、黄色の花、それにススキが描かれていて、私はこれらがこの季節に本当に咲いているのか、咲いているならそれは何なのかを確かめたいと思いました。

調べると、全部、芭蕉自身がこの日の地の文に書いた花でした。ピンクから赤紫は萩、紫は桔梗、黄色は女郎花、銀の穂は尾花、つまりススキ。あとは目立たない緑の刈萱。いずれも花期は9月で、9月20日に矛盾はありません。秋の七草のうち四つを、芭蕉はこの野で並べていたことになります。

絵で揉めたこと

本歌の最初の絵には、旅人が三人描かれていました。私は「芭蕉は一人で旅をしていたんじゃないのか」と思ったのですが、確かめると、事実として三人でした。「ともなふ人ふたり、浪客ろうかくの士ひとり、ひとりは水雲すいうんの僧」。曾良と宗波そうはという僧が一緒です。事実がそうなら、無理に一人にしなくていい。

そのうえで、構図を変えました。芭蕉一人が低い土手の上に立って馬を見ていて、同行の二人は先の道を小さく歩いている。土手が1687年にそこにあったかは確かめられないので、これは仮説です。土手の高さは場所によってずいぶん違うようなので、絵では、研究者の方に教わった土手の印象に寄せて、腰の高さにしました。馬は、横長の絵で全部が同じ向きを向いていて不自然だったので、向きをばらして、一頭は芭蕉のほうを向かせました。狼は最初、ふっくらしすぎていて、ハスキー犬のようでした。ニホンオオカミは大陸の狼より小さく、脚と耳が短く、尾を垂らした痩せた犬のような姿だそうです。そう直しました。

本歌(A面)の象徴画像。1687年9月の夕暮れ、下総の牧の野。低い土手の上に立つ檜笠の旅人の後ろ姿。萩と尾花の野に小柄な馬の群れ、芦毛の一頭がこちらを見ている。先の道に同行の二人が小さく、手前の萩の陰に痩せた狼が一匹。遠くに筑波山の二峰 本歌(A面)の象徴画像。土手の上の芭蕉と、芭蕉を見る一頭(生成AI・Codex image_genで制作)

縦長の絵は、直したら土手が二本になってしまい、もう一度直しました。差し替えのたびに、縦と横を別々に見ないといけない、というのが今回の教訓です。

翻歌を作るときに考えたこと

ここで、盤を裏返してみてください。B面、翻歌です。

一首一景では、一つの歌を一枚のレコードのように、表と裏の二曲にしています。表(A面)は原歌の世界に寄せた「本歌もとうた」、裏(B面)は歌の芯を同じ場所の今へ翻してつくる「翻歌ほんか」です。

今回はまず、A面・B面・記事の三つで、それぞれ何を芯にするかを決めました。A面は「ところえがほ」。我が物顔の馬たちを、歩き通した旅人が見る。B面は「やどせ」。家を離れた誰かを、この土地が一晩泊める。そして記事は「同じ野の住人」。

問題は、翻歌で「山の犬」を誰に置き換えるかでした。当時の狼がどういう存在だったか、それに当たるものが現代に何か、と考えて、AIと候補を並べました。夜の野を通り抜ける人。狼がいなくなった今、土手の前に立って「ここに何があったか」を語る人。そして、家を離れたばかりの15歳。

途中でAIが「データセンターの夜通しの灯り」を提案してきました。確かにこのエリアはデータセンターが集まっている場所です。でも、電車から見えるデータセンターはないし、そもそもデータセンターはあまり人がいないので、夜通し灯りをつけておく必要がない。見ていない風景を雰囲気で足したら、それは現代のハルシネーションなので、これは落としました。

選んだのは、競馬学校の騎手候補生です。芭蕉が山の犬に自分を重ねたように、家を離れて牧の跡で一夜の宿を求める者に、一人前の騎手を目指す子を重ねる。「野の駒」と「山の犬」を一人で兼ねられる。

案は二つ残りました。寮の窓から黒い野を見て最初の夜を思い出す案と、土手の上に立って昔の小さな馬のことを知る案。悩んだので、足しました。寮の窓の夜と、一人で歩いて行った土手。ただし「教官が土手に連れて行く」のような、事実として確かめられない出来事は入れない。歌の中で確かめられるのは、全寮制の3年、朝7時半からの実技、野馬除土手が今も残っていること、当時の在来馬が体高110〜120cm台と推定されていること、くらいです。

季節も合わせました。入学は4月なので「入学の夜」にすると春になって、本歌の秋と合わない。だから翻歌の主人公は9月、入学から5か月の少年にしました。

一カット目は、9月の夜の寮の部屋です。窓の外は暗い野と木立で、月も灯りも描いていません。学校を特定するものも描いていません。

翻歌(B面)カット1。9月の夜、簡素な寮の一室。窓辺に立つ少年の後ろ姿、窓の外は暗い野と木立、星。机に乗馬ヘルメット、床にブーツ 翻歌(B面)カット1の象徴画像(生成AI・Codex image_genで制作)

二カット目は、昼の土手です。少年が一人で歩いて行った野馬除土手として、白井市冨士に残る中野牧の野馬除土手(市の指定文化財)を、市の公式写真を参照して描きました。住宅地の中に、木の生えた低い土手が残っています。曲では、「ひとりで歩いた」の行の頭で、窓から土手へ絵が切り替わります。

翻歌(B面)カット2。昼の住宅地の公園、木の生えた低い草の土手。土手の上に立つ少年の後ろ姿、背後に集合住宅と家 翻歌(B面)カット2。白井市の公式写真を参照して描いた野馬除土手(生成AI・Codex image_genで制作)

声のこと

本歌は、歩く速さの拍で、三味線一挺と篠笛、40代半ばの低く乾いた男声にしました。翻歌は、ナイロン弦のギターとフェルトピアノの、10代の少年の声です。

今回はいつもと違うことを一つ試しました。Sunoに自分の声を登録したVoiceという機能があって、一首一景では使わないと決めていたのですが、たまにはチャレンジしてみたいと思って、本歌も翻歌も自分の声で歌わせてみた。結果としては、声なしのほうを採用しました。でも試してよかった。

歌詞は一箇所、歌わせてみて直しました。翻歌の「ちいさな うまを とめてた どて」が、歌になるとイマイチだった。「ちいさな うまを とめてた とか」にしました。「昔ここで小さな馬を止めてた、とか」。15歳の言い方として自然になったのと、土手の高さを断定しない言い方にもなった。研究者の方に教わった1mほどと、隣の鎌ヶ谷市が国の史跡の整備で測った約3mとで数字が合わないので、その意味でも「とか」でよかったと思っています。

それから、翻歌の曲の指示からテンポ(BPM)の指定を外しました。指定して作ったものより、外して作ったもののほうが、納得のいく曲になった。理由は分かりません。

まだ分かっていないこと(教えてください)

考証は、仮説として版を打って公開する、というのがこの企画のやり方です。今回、調べても決められなかったことを書いておきます。

詳しい方がいらしたら、ぜひ教えてください。次の版で直します。

出典

調査に使ったページです。読みや解釈の情報は、できるだけ原文サイトや辞典で裏を取るようにしましたが、AIによる要約を経由しているものもあります。正確な引用が必要な方は原ページをご確認ください。

挿絵は、すべてこの企画のために生成AI(OpenAI Codex CLI 組み込みの画像生成)で制作したものです。野馬除土手の絵は白井市の公式写真を参照して描いてもらいました。楽曲は Suno v6、構成と編集は Claude Code を使っています。何か使用上の問題等が考えられる場合は、ご連絡をいただけましたら幸いです。

えいわ一首一景
SIDE A 本歌
萩原や

企画編集:篠崎裕介(しのジャッキー) 生成AI使用:音楽 Suno v6/画像 Codex/編集 Claude Code
EIWA-013 v1
#えいわ一首一景